2016年2月25日木曜日

時計メーカーの歴史【Elgin編】

Ⅰ.はじめに

 Walthamと並び、時計マニアにとって最も馴染み深いアメリカ時計メーカーはElginであろう。ElginはWalthamと同時期にアメリカ時計産業を牽引していたリーディングカンパニーであるが、両社の歴史を比較すると、歴史的類似性を見出すことができる。すなわち、両社は共に、アメリカン・システムといわれる共通の生産システムによって北米大陸を時計大量生産の一大拠点へと変える偉業を成し遂げながらも、第二次世界大戦後に時計産業の変容に適応することが出来ぬままに破産する末路を辿っているのである。
 図1は1907年頃のElginの広告である。商品カタログ請求用のフォームが付いているなど、妙に現代臭さのある広告となっている。図1に写っている紳士は、Elginの時計の取扱量が当時世界最大であった商社の社長である。

図1:「Popular Mechanics(1907年)」より

 

Ⅱ.歴史

(1)前史
 アメリカ大陸における時計の製造は英国植民地時代にまで遡ることができる。ヨーロッパから移住してきた時計師が時計製造を始めたことがアメリカ時計産業の源流なのである。しかし、当時の時計製造の工程は手作業に大きく依存するものであり、時計を大量生産するためには多数の時計職人が必要であった。時計製造後発国であったアメリカが大量の時計職人を確保できる筈も無く、時計製造の中心地はヨーロッパ、特にスイスとイギリスであった。

(2)National Watch Company
 Elginは1人の起業家が興した会社ではなく、複数人が結束して設立した会社である。Elginの設立から発展期に顕著な実績を残したのは、J・C・アダムス、P・S・バートレット、D・G・クーリエ、オーチス・ホイット、チャールズ・H・メイソンといった人物達であった。彼らに加えて、シカゴ市長のベンジャミン・W・レイモンドもElginの設立に関与している。図1は1888年に出版されたThe Watch Factories of Americaに掲載されていたJ・C・アダムスの肖像画である。紳士然とした風貌である。

図2:「The Watch Factories of America(1888年)」より

 1864年、J・C・アダムスの時計メーカー設立の計画に対してシカゴ市長のベンジャミン・W・レイモンドが出資を決意する。これによって10万ドルを得たジョン・C・アダムスは、この資金を活用して、シカゴから北へ30km程の位地に時計工場が建設する(この土地は地元の名士から工場用として寄贈されたものであったらしい)。さらに同時期、Walthamから離脱した時計技術者であるD・G・クーリエを雇い入れ、Walthamが成功を収めつつあった生産システムのノウハウを獲得する。
 1865年の時点におけるNational Watch Companyの人事は、社長がベンジャミン・W・レイモンド、副社長がフィロー・カーペンター、財務責任者がトーマス・S・ディッカーソン、秘書がジオ・M・ウィラーという布陣であった。
 1867年には初のムーブメント(後にB.W.Raymondと名付けられる)を市場へ投入するに至る。

(3)Elgin National Watch Company
 時計製造を続けるにつれて、National Watch Companyという社名よりも、「Elgin Watches」や「Watch from Elgin」といった愛称の方が時計市場において高い認知度を博する様になった。そこで、1874年にNational Watch Companyの大株主達がシカゴに終結して社名変更の是非を検討した結果、Elgin National Watch Companyへの社名変更が決定された。図2は1873年に出版されたIndustrial Exposition of Chicagoの一部であるが、National Watch CompanyからElgin National Watch Companyへの社名変更の直前期に出版された同書からは如何に「Elgin」の愛称が如何に普及していたかを感じ取ることができるだろう。

 
図2:「Industrial Exposition of Chicago(1873年)」より

 1874年の社名変更の頃にElgin National Watch Companyの市場シェアは30%を超えるに至る。そこで、更なる市場シェア拡大を目指して、1876年にElginは時計の価格を40%から55%程度に渡って引き下げることを発表した。更に、7種類のムーブメントは40ドルで販売されることとなった。これは驚異的な値下げであった。これによって、アメリカへと輸入されるヨーロッパ製の時計のシェアは急落していくこととなった。とはいえ、Elginの発表は、Walthamが大幅な値下げを発表するという思わぬ影響をもたらし、アメリカ時計メーカー間の競争は更に苛烈化していくこととなった。
 1877年には初のニッケル製ムーブメントを市場へと投入する。1883年の4月5日、Elginの設立を資金面から支えた恩人であるシカゴ市長のベンジャミン・W・レイモンドが死没する。
 1888年にはElginのムーブメント生産能力は週7500個にまで達する。時期的にもう少し後になるが、1894年に出版されたGood Housekeepingの一部が図3である。図3のオファーリストを拡大すると、「Waltham or Elgin」という表記が非常に多いことに気が付く。アメリカ市場における両社のシェアの大きさを感じ取ることができるだろう。

図3:「Good Housekeeping(1894年)」より

 1910年には時間の精度を向上させるために天文台の建設を決定し、本社と同じイリノイ州エルジンにElgin National Watch Company Observatoryを建設した。
 1917年、アメリカは第一次世界大戦への参戦を決断する。ヨーロッパへと送り込まれたアメリカ陸軍は連合国側として戦うこととなったが、そこには350名以上のElginの技術者達が同行していた。戦地において彼等は高い技術力を要する修理作業に従事してアメリカの戦争遂行を支えた。
 1936年に第二次世界大戦が開戦すると、Elgin National Watch Companyは他のアメリカ時計メーカーと同じく、民需向け時計の製造を停止し、軍需向け時計の製造に力を注ぐ。時計以外にも、観測装置や航空機器や野砲の部品であるベアリングを製造してアメリカの戦争遂行を支えていた。
 第二次世界大戦後、他のアメリカ時計メーカーと同じくElginの経営は悪化の道を辿った。Elgin National Watch Companyの戦争遂行に対する献身的努力が、皮肉にも自らの首を絞める結果を生じさせたのである。第二次世界大戦中に需要が急拡大した軍用時計の生産を支えていたElgin National Watch Companyは、軍用時計の生産ラインを民需向け時計の生産ラインへ切り替えることに失敗した。そのうえ、民需向け時計の製造をElgin National Watch Companyが停止している間を突いてスイス時計メーカーがアメリカ時計市場におけるシェアを急拡大していたのである。また、後にTimexと改名するUnited States Time Corporationが安価な時計の生産を開始したことで、消費者の時計に対する考え方は「修理して使い続けるよりも買い換えた方がよい」価値観へと変化しつつあり、それまでElgin National Watch Companyの顧客層であった「高価で高品質な時計を修理して大切に使い続ける消費者」は減少していた。

(4)Elgin National Industries
 1949年の先輩格であったWalthamは破産したが、Elgin National Watch Companyはアメリカ産業に吹き荒れた逆風に抗い続けた。時計事業以外の分野への進出も図るなど、第二次世界大戦から間も無く破産したWalthamよりも企業体力は温存されていた様である。しかし、今一歩、力は及ばず、1968年に時計製造を終了する。その後、建設会社を統合したElgin National Industriesが設立されるも、時計部門と商標は別会社に売却された模様である
 この時期に何があったのかについて調べてみたものの、不明な点が極めて多い。時計部門と商標を含めた資産が一括して何処かの時計メーカーに譲渡されたことまでしか把握できなかった。

Ⅲ.おわりに

Elginの歴史には、Walthamの歴史との共通点が少なくない。同時期にアメリカ時計産業を牽引していた両社の歴史をパラレルに理解することが、ElginとWalthamの社史理解およびアメリカ時計産業史の把握の近道となる。
 Elginの歴史は、「①Walthamの後発として誕生してその生産システムに習ったこと、②一時期はWalthamをも凌駕する生産力を誇ったこと」の2点によって彩られているといえるだろう。Walthamよりも後発でありながら、アーロン・ラフキン・デニソンとWalthamが編み出したアメリカン・システムによる時計製造を完成型へと至らしめた功労者がElginなのである。
 余談であるが、歴史を調べている限りでは、Walthamからはアーロン・ラフキン・デニソンやロイヤル・E・ロビンスといったカリスマによって経営がなされていた印象を受ける一方で、ElginからはJ・C・アダムスやベンジャミン・W・レイモンドやオーチス・ホイットといった面々による協議体によって経営がなされていた印象を受けたことを最後に付言しておく。

Ⅳ.参考文献

(1)書籍
・Henry G. Abbott『The Watch Factories of America(1888年)』
・Albert Sidney Bolles『Industrial History of the United States(1878年)』
・James Nowlan『Industrial Exposition of Chicago(1873年)

(2)ウェブサイト
・『Elgin』
 http://www.thewatchguy.com/pages/ELGIN.html
・『Elgin National Watch Company』
 http://www.elginnumbers.com/

2016年2月22日月曜日

内田星美「時計工業の発達」

 これまでに何度か「時計史を学びたいのだが何を参考にすればよいか?」と質問されることがありましたが、その度に私は内田星美氏の「時計工業の発達」を紹介しています。関東大震災と太平洋戦争によって多くの社内資料を喪失した服部セイコーが社史の代わりとして出版した「精工舎中心の日本時計工業発達史」三部作の第一部に該当する書籍です。①欧米から日本への時計産業の承継、②明治時代における日本の時計産業の発展、③明治時代の日本の地方都市における時計産業について知りたい方には特におすすめです。

「時計工業の発達(1985年)」より

 本書は全3編で構成されており、第1編では欧米における時計産業の発達(時計産業黎明期~アメリカ時計産業の発展)、第2編では日本における時計産業の発達(明治時代)、第3編では精工舎の設立から発展(明治時代~関東大震災)を取り扱っています。関東大震災から太平洋戦争までの日本時計産業の発達は第二部に該当する書籍、終戦後からクオーツ時計の完成までの日本時計産業の発達は第三部に該当する書籍に委ねられているため、本書には含まれません。

 出版の経緯から精工舎中心の構成ではありますが、欧米時計産業史の文脈から日本の時計産業史を読み解くことができるという点で時計史マニアにとって読み甲斐のある内容となっています。加えて、本書には名古屋と大阪における時計産業史というマニア好みな内容も含まれており、この部分だけでも読む価値があると思います。

 最後に著者の内田星美氏を紹介しておきます。内田氏は東京大学工学部と経済学部を卒業した後に商工省へ進み、産業研究に携わった方です。著書を読んでいても、工学と経済学を学んだ経歴がまさに活かされていると感じる分析が非常に多く感服します。各社からの要請に応える形で、社史編纂にも携わった様ですね。氏の著書は技術や産業に関する分野を横断的に深く広く掘り下げるものが多いです。時計以外にも繊維や金属関係の研究も行っていた様で、著書も多く残されています(1950年代に日本繊維経済研究所に在籍していた関係からか、繊維産業に関する研究は特に熱心に行っていた様です)。そのため、「時計史研究家」ではなく、「産業史研究家」と呼ぶ方が正確でしょうね。氏は2005年に交通事故で亡くなっていますが、最近まで存命であっただけに、それなりの規模の図書館へ行けば著作にアクセスすることは容易です。

2016年2月10日水曜日

時計メーカーの歴史【Waltham編】

Ⅰ.はじめに

Walthamといえば、アメリカの名門時計メーカーとして時計愛好家、とりわけ懐中時計蒐集家の間では高い評価を博している時計メーカーである。しかし、なぜWalthamは名門時計メーカーと言われるのであろうか。リンカーンや川端康成が愛用したエピソードは有名であるが、このエピソードだけで現在の名声が形成されたとは考え難い。では、高品質ゆえに現在の名声を獲得したのであろうか。たしかにWaltham製の懐中時計は高品質である。しかし、Waltham以上に高品質な懐中時計を製造していたメーカーは数多ある。如何なる経緯でWalthamが現在の名声を獲得し、破産から久しい現在も尚、時計愛好家達に愛されてやまないのかを本稿を通して感じて頂ければ幸いである。

図1:「1925年6月10日官報」掲載公告

  図1は1925年に日本の官報に掲載された米國ウオルサム時計会社の広告である。現在こそ、時計愛好家界隈以外の一般世間では有名とは言い難い同社ではあるが、かつて日本との繋がりが非常に濃いメーカーであったことが実感できるだろう。Walthamの日本法人である米國ウオルサム時計会社は、広告を通じた宣伝だけに留まらず、時計関連情報を発信する書籍を発行するなど、精力的に広報活動に取り組んでいた(この点についてはⅢで後述する)。図1の広告内にも、絶版状態だった米國ウオルサム時計会社発行の書籍の第四版が上梓したとの記述が確認できる。


Ⅱ.Walthamの歴史

まずは、時系列に沿ってWalthamの歴史を概観してみよう。同社は度重なる社名変更に加えて、途中に破産を経験するなどしており、Walthamという会社が一貫して存在し続けていていたわけではない。Walthamが現在の名声を博するまでの道のりは決して平坦なものではなかったのである。

(1)前史
 Walthamの源流であるAmerican Horologe Companyが誕生する以前にも、アメリカにおいて懐中時計の製造を試みた時計メーカーは複数存在した。しかし、その試みは全て失敗に終わっている。というのも、懐中時計製造には極めて高度の加工技術が必要であり、精度面でも価格面でも、イギリス及びスイスからの輸入時計に対抗できなかったためである。イギリス及びスイスには高度の技量をもつ技術者が多数存在したのに対して、時計産業後発国であった当時のアメリカには高度の技量を持つ技術者が多くはなかったのである。
 この状況の打開を試みたのが、アーロン・ラフキン・デニソンである。彼はアメリカ合衆国メイン州出身で工作機械などの設計に取り組んでいたが、スプリングフィールド兵器廠で大量生産される銃器を目にした時に、懐中時計を大量生産するアイデアを得た。そこでアーロン・ラフキン・デニソンは、まずイギリスに渡ってスイス人の時計技師達を雇い、会社立ち上げの用意を始めた。

(2)American Horologe Company
 そして、1850年にアーロン・ラフキン・デニソンは、エドワード・ハワードおよびデイヴィッド・デイヴィスと共同でAmerican Horologe Companyを立ち上げた。そして、マサチューセッツ州ウオルサムに工場を建設し、懐中時計の生産を開始した。1852年には初の8日巻き懐中時計(Howard, Davis & Dennison)を完成させた。その後も懐中時計の生産に挑み続け、何度かに分けて大量の懐中時計を出荷した。事業は軌道に乗った様に思われた。

(3)Boston Watch Company
 1853年にAmerican Horologe CompanyはBoston Watch Companyへと改名する。従来の工場よりも広い工場を建設し、懐中時計の製造を続けた。しかし、アーロン・ラフキン・デニソンの構想した懐中時計の大量生産は工作機械の精度不足という問題に直面する。懐中時計の製造に極めて高度の加工技術が必要であることは上述した。この問題を、スイス時計産業は「伝統的な師弟制度で時計技師を大量に確保する」ことで克服していたが、伝統的な時計産業が存在しないアメリカの場合は、「工作機械と生産システム」によって克服しなければならなかった。しかし、1850年代の工作機械・生産システムで、高精度の懐中時計を製造することは困難だったのである。
 アーロン・ラフキン・デニソンは工作機械の改良に尽力するが、会社の運営は傾き続け、1857年にBoston Watch Companyは破産する。

(4)Appleton Tracy & Company
 破産したBoston Watch Companyを買収したのはロイヤル・E・ロビンスとベッカー(フルネーム不明)であった。彼等は1857年にBoston Watch CompanyをTracy Baker & Co.へと社名を変更し、同社の建て直しを開始した。しかし、すぐにベッカーはTracy Baker & Co.の経営から手を引き、代わりにジェームズ・W・アップルトンが同社の経営に加わった。ベッカーが会社を去ったことから更なる社名変更が必要となり、同社はAppleton Tracy & Companyへと改名した(2016年2月8日追記)。モデル1857と呼ばれる懐中時計のムーブメントが製造されていたのはこの時期である。
 ロイヤル・E・ロビンスが買収して以降も、アーロン・ラフキン・デニソンはAppleton Tracy & Companyに残留していたが、1861年頃にロイヤル・E・ロビンスに解雇されてしまう。解雇されたアーロン・ラフキン・デニソンはアメリカを去り、スイスやイギリスを転々とした果てにイギリスのバーミンガムで時計ケース製造会社を起業して大成功を収めるのだが、この話は別の機会に記事にしたい。

図2:「The Missionary Herald(1871年)」

(5)American Watch Company
 1859年にAppleton Tracy & CompanyはAmerican Watch Company へ名前を改める。創立者が会社を去った後も、ロイヤル・E・ロビンスはアーロン・ラフキン・デニソンの「工作機械を用いた懐中時計の大量生産」という構想を引き継ぎ、懐中時計の大量生産に必要な工作機械の試作を続けた。
 1861年には南北戦争が勃発する。American Watch Companyが位置したマサチューセッツは奴隷廃止運動の急先鋒として北軍を支えてることになる。南北戦争中、American Watch Companyは生産ラインを停止した。
 南北戦争終結後の1865年以後にAmerican Watch Companyは黄金期へと突入する。この頃から工作機械の改良によって人件費の削減に成功し、これにより、熟練工の力を殆ど必要としない生産体制が完成をみた。熟練工と異なり、低賃金かつ大量に確保しやすい婦人工を多く採用することで、低コストで懐中時計を大量生産できる体制が実現された。この時期、American Watch Companyの時計が(極めて高い精度が要求される)鉄道用時計に採用され、American Watch Companyの技術力がスイス時計産業にも劣らない水準に達していることを印象付けた。
 余談であるが、この時期にAmerican Watch Companyから引き抜かれた技術者がNational Watch Companyに合流している。彼等は後にElginと社名変更する同社にAmerican Watch Companyの生産システムを伝えた。後にNational Watch CompanyはAmerican Watch Companyに比肩する企業となるまでに成長を遂げるに至る。

図3:「The Monthly Religious Magazine(1871年)

 1880年代には、American Watch Companyの懐中時計生産量は日産1200個以上に達し、名実共にアメリカを代表する時計メーカーとなっていた。工作機械の自動化は概ね完了し、スイスの倍以上の生産効率を誇る独創的な生産システムを完成させることにも成功した。この生産システムを活用したWalthamは、高品質で安価な時計を大量に市場へ供給することで名声を高め、黄金時代へと突入していく。

図4:「Perry & co's monthly illustrated price current(1882年)」

(6)Waltham Watch Company
 1885年にはAmerican Waltham Watch Companyへと名前を改める。我々の知る「Waltham」という単語が会社名に入ったのはこの時である。1906年にはWaltham Watch Company、1923年には「Waltham Watch and Clock Companyへ社名を変更するが、1925年にはWaltham Watch Companyへ再び戻り、頻繁な社名変更に終止符が打たれる。

(7)終焉
 第二次世界大戦後、スイス時計産業は急成長を遂げる。スイス時計産業の躍進とは対照的に、第二次世界大戦中に需要が急拡大した軍用時計の生産を支えていたWaltham Watch Companyは、軍用時計の生産ラインを民需向け時計の生産ラインへ切り替えることに失敗した。更に、第二次世界大戦中に変化していた時計市場に対応することも、急速に進歩した時計生産技術を民需向け時計に反映することもできなかった。スイス製の時計が大量にアメリカに流入し、Waltham Watch Companyは急速にアメリカ国内におけるシェアを落としていった。
 こうした悪条件が重なった中でWaltham Watch Companyは打開策をとることもできず、資金繰りは悪化し続け、1949年に破産した。とはいえ、破産後も何度かに渡って工場を再稼動させ時計を生産していた様である。会社再建の試みも為されたが結局は実らず、アメリカ時計メーカーとしてのWalthamの血脈は永久に絶たれることとなった。


Ⅲ.コラム

(1)Walthamの生産システム
 Walthamが時計産業後発国のアメリカにおいて急成長を遂げた理由は、アーロン・ラフキン・デニソンが構想してWalthamが確立した生産システムにある。
 時計産業先進国であったスイスでは、①伝統的師弟制度により安定供給される職人が②別々の場所で己の専門とする部品を製造していた。これに対して、Walthamは、①労働者が②高度に機械化された一箇所の工場において迅速かつ大量に部品を製造するアメリカン・システムを打ち出した。かつてアメリカ時計産業が太刀打ちできなかったスイス時計産業の産業構造とは極めて対照的な「効率性を重視した生産システム」という対極的な策を打ち出したのである。
 工作機械と生産システムの絶え間ない改良を続けた結果、アメリカ時計産業は「労働者1人当たり年間150個の懐中時計を製造する」までの生産性を獲得するに至った。当時のスイス時計産業の生産性が「労働者が1人あたり年間40個の懐中時計を製造する」状態であったことを考えると、如何に傑出した生産性を誇っていたのかを窺い知ることができる
 Walthamは「部品の互換性の確保」によって、製造コストを引き下げつつ高品質な時計を製造することにも成功している。図5は1890年代の広告であるが、高級機から低級機に至るまでムーブメントの設計それ自体に大きな差異が見受けられないことが確認できるだろう。可能な限り部品の互換性を確保することで、部品の製造コストを引き下げつつ品質の向上を成し遂げたうえ、整備性の向上をも同時に達成した。この時代の時計の価値は現代のそれよりも著しく高いものであって安易に買い替えができるものではなかったため、整備性の向上は非常に意義のあるものであった。既に懐中時計のムーブメントの設計は殆ど完成に達していたことも、部品の互換性を確保することを可能としたといえる。高級機と低級機との差別化は主として仕上げの違いによって為されており、設計それ自体が大きく異なるわけではない。
 Walthamが確立した「互換性部品の比率を極限まで高めた時計を大量生産によって低コストで製造する」アメリカ流の時計生産システムは、ElginやHamiltonといった後発のアメリカ時計メーカーにも模倣され、アメリカ時計産業の産業構造として確立していくこととなった。

 図5:「The Jewelers' Circular and Horological Review(1891年)」 

(2)米國ウオルサム時計会社
①日本でも宣伝されたWalthamの生産システム
 米國ウオルサム時計会社は日本国内において何冊かの書籍を出版している。自社製品を宣伝する内容ではあるのだが、幾つかの興味深い記述を読み取ることができる。
 とりわけ興味深いのが、以下の図6から図8である。ここでは、①欧州製の時計が主として伝統的な手工業によって製造されていることを指摘したうえで、②自動工作機械によって製造されている自社製品の優秀さを説いている。さらには、③「一度、世間に浸透した認識を取り払うことは困難である」と暗に欧州製の時計を盲目的に信奉する消費者に警鐘を鳴らしている。
 この記述に、本稿で説明してきた「スイス時計産業とは異なる方法の確立」によって、時計産業の産業構造に革命をもたらし、高品質な時計の大量生産に成功したWalthamの気概を感じることはできないだろうか。

図6:「材料より観たる時計(1921年)」Ⅰ

図7:「材料より観たる時計(1921年)」Ⅱ

図8:「材料より観たる時計(1921年)」Ⅲ


②Walthamに関する逸話
 米國ウオルサム時計会社が1928年に出版した「時計讀本」に、Waltham製の時計に関する逸話を紹介する記述があった(図9から図11)。①Waltham製の時計は時報にも勝る精度を発揮し、②Waltham製の時計は激しい振動に晒される鉄道乗務員が使用していても高精度を保つことができると述べられている。ただし、この書籍は米国Waltham社が編集して日本で出版されたものである。そのため、この記述には自社製品の信頼性を宣伝する意図もあったと考えられる。過信は禁物ではある。

図9:「時計讀本(1928年)」本文よりⅠ

 図10:「時計讀本(1928年)」本文よりⅡ

図11:「時計讀本(1928年)」本文よりⅢ

(4)Waltham工場を訪問した日本人
 1903年に出版された「欧米紀行」に、1900年頃にWalthamの工場を訪問したと思われる記述があった(図12)。Walthamの工場が如何に機械化されていたかを窺い知ることができる。懐中時計のムーブメントの生産力が日産3000個に達していたと思われる記述はWalthamの歴史を考える上で興味深い記述であると思う。
 1850年に「ロビンソン氏」と「アップルトン氏」がWalthamを設立したと述べられているが、誰のことを指しているのだろうか(私が調べた限りではAmerican Horologe Companyの創立者は、David Davis、Edward Howard、Aaron Lufkin Dennisonの3名)。「ロビンソン氏」はロイヤル・E・ロビンスのことを指していると考えられる(2016年2月7日修正)。「アップルトン氏」については調査をしても判明はしなかったが、社名および図2中の署名(ROBBINS & APPLETON)からしてAppleton Tracy & Companyの関係者と推測される。「アップルトン氏」についての詳細が判明した。破綻したBoston Watch Companyをロイヤル・E・ロビンスと「ベッカー(フルネームは不明)」という人物がTracy Baker & Co.という名前で立て直したのだが、ベッカーは直ぐにTracy Baker & Co.の経営から手を引き、入れ代わりにジェームズ・W・アップルトンがTracy Baker & Co.の経営に参入したらしい。その際に社名をTracy Baker & Co.からAppleton Tracy & Companyへと変更したというのが真相の様だ(2016年2月8日修正)。欧米紀行の筆者がWalthamを訪問した時には既にアーロン・ラフキン・デニソンの手からWalthamが離れていたため、誤認したのではないかと思われる。

図12:「欧米紀行(1903年)」本文より

Ⅳ.おわりに 

 Walthamの歴史は「①アメリカ時計産業の興亡を象徴する存在であること、②革新的な生産システムの構築によって時計製造のあり方に一石を投じたこと」の2点によって彩られている。最後に、この2点について簡潔に確認しておく。
①アメリカ時計産業の興亡を象徴する存在であること
 Walthamの歴史はアメリカ時計産業と共にあった。アメリカ時計産業の黎明期にWalthamは誕生し、アメリカ時計産業の産業構造を定義してその黄金時代を牽引し、アメリカ時計産業の衰退と共に破産したのである。Walthamが先駆者となった時計の大量生産は、アメリカ時計産業における同業他社に模倣されることで時計産業全体に拡散していくこととなる。
②革新的な生産システムの構築によって時計製造のあり方に一石を投じたこと
 また他方で、互換性部品の大量生産によって、安定した品質の時計を低価格で大量に供給することを成し遂げた点でもWalthamは象徴的な存在である。品質と価格の両面で強みを持つ生産システムの発明によって、手工業的時計産業の黄金時代は終わりを迎えることとなった。


Ⅴ.参考文献

(1)書籍
・大田彪次郎『欧米紀行(1903年)』
・米國ウオルサム時計会社『時計讀本(1928年)』
・米國ウオルサム時計会社『材料より観たる時計(1921年)』
・内田星美『時計工業の発達(1985年)』
・John Swinton『A Model Factory in a Model City(1887年)』
・Perry & Co.『Perry & co's monthly illustrated price current(1882年)』
・Leonard C. Bowles『The Monthly Religious Magazine(1887年)』
・Jewelers' Circular Pub. Co.『The Jewelers' Circular and Horological Review(1891年)』

(2)ウェブサイト
・『Evolution Of The First Successful Industrialized Watch』
 http://www.pricelessads.com/m57/seminar/seminar.pdf
・『Waltham Goes to War - McIntyre on Watches』
 http://mcintyre.com/present/WalthamGoesToWar.pdf

Walthamの歴史の調査を始めました

Walthamの歴史の調査を始めました


図1:「1927年9月9日官報」掲載広告

 時計史の記事を執筆することを決意したものの、記事の題材の選定にはかなり苦悩しました。数日間に渡って考え抜いた果てに、アメリカの名門時計メーカー、Walthamの歴史を題材にすることを決意しました。

 Walthamは時計愛好家の間で非常に高い評価を博しているにも関わらず、会社としての歴史に関する情報が少ない時計メーカーです。Walthamの懐中時計は相当数が現存していることもあってアンティーク市場でも多く見かけますが、100年前の技術で製造されていたものとは思えないものも少なくありません。Walthamはアメリカ屈指の名門時計メーカーだったこともあって参考となる文献は充実しています。

 図1は1927年の官報に掲載されていた広告です。1920年代、米國ウオルサム時計会社は活発な広報活動を展開していたらしく、過去の官報を調べると非常に多くの米國ウオルサム時計会社の広告を確認することができます。

 今回の記事では、英語文献からも情報を取り入れつつ、未だ日本語化されていないであろうWalthamに関連する情報を公開しました。Walthamの情報を網羅した英語サイトに対しては、日本との歴史的関係を古書から抽出することで差別化を図っています。

 今は下書き状態に戻していますが、近いうちに公開します。